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Yaroslav Pavulyak Biography – Japanese

私たちのサイトへようこそ。

このサイトは、父でありウクライナ詩人であるヤロスラフ・パブラック(Yoroslav Pavulyak)に捧げます。

私の名前はマリアナ(Mariana)、ヤロスラフ(Yoroslav)の長女です。
世界中の人たちに父の人生、そして父が作り上げた作品を伝えたい、またウクライナの言語や文学に興味のある人たちに父の詩に触れて頂きたいという想いから、このサイトを開設しました。

父は1948年4月30日、西ウクライナ テルノーピリ(Tornopil)郡ナスターシフ村(Nastasiv)で大工のイバン(Ivan) とメラニア(Melania)の間に3人兄弟の二男として生まれました。母のメラニアは農作業をしながら、兄のボフダン(Bohdan)、父のヤロスラフ、弟のヤブハン(Yevhen)の3人の子供達を育てました。

父はリヴィウ(Lviv)にある美術学校に通い、主に陶芸を学びました。
1967年に学校を卒業した父は、いくつかのアートギャラリーや美術工芸施設で働き始め、美術品の修復作業に従事しました。
父は祖国を愛し、ウクライナの文化、歴史、文学を愛しました。
しかしこの情熱が、その後の父と家族の運命を困難なものにしました。
その当時のウクライナはソ連(ソビエト連邦共和国)の一つであり、ウクライナの文化を広めることを抑圧されていたからです。ウクライナの文学を読むことさえ(一部の作品、作家を除く)禁止されていました。日常生活におけるあらゆるウクライナの習慣が抑制され、人々は母語であるウクライナ語ではなくロシア語で話すことを推奨されていました。

しかし、まだ21歳の若く理想に燃える父は、敬愛する偉大なるウクライナの詩人 タラス・シェブチェンコ(Taras Shevchenko)を讃えるため彼の胸像を作ることを決意しました。
像の製作は密かに行われました。完成した像はとても大きく重かったので、父は友人の助けを借り、真夜中、村の中心部にある丘の上に像を運び設置しました。翌朝、像を見た村人たちの驚きは相当なものでした。彼らが愛する詩人が丘の上に立ち彼らを見つめているのですから。誰もが自分の目を信じることができませんでした。
それは1969年5月1日の出来事です。しかし、当時の社会情勢は、父の行為を許しませんでした。
すぐにKGB(旧ソ連国家安全保安機関)の知るところとなり、父は連行されました。KGBの厳しい追及が始まり、村から像を撤去するよう強制されましたが、父は頑なに拒否しました。次に彼らは、兄のボフダンに父を説得させようとしましたが、うまくいきませんでした。父は彼らが考える以上に頑固で強い信念を持っていました。
KGBは自分たちの手で像を撤去したくはありませんでした。
ウクライナ人に対する抑圧の鬱憤が反ロシア、反ソ連の感情となり噴出してしまうことを恐れたからです。
次にKGBは、村人たちの中から、胸像を取り壊してくれる者を探しました。
当時の村人たちにとってKGBがどんなに恐ろしい存在だったか容易に想像がつきます。
しかし、誰一人としてKGBに協力する者はいませんでした。
私は村人たちの気骨と勇気に敬意を表します。
彼らのおかげで、胸像は今でも、同じ姿で同じ場所に立っています。

しかし、この胸像事件の後、父と家族は迫害を受けることになります。父は2か月間、家の中に拘束され、二人の兄弟は仕事を失いました。兄のボフダンは激しいストレスから、脳卒中の発作を起こしました。
このような状況にもかかわらず、家族の誰一人として父の行為を責める者はいませんでした。

その後、父はチェルニヴェツイー大学 (The University of Tchernivtsy)に入学しました。
この町で父は、黒い目のマリーカ(Mariyka)と出会い、初めての恋に落ち、婚約しました。
しかし、1971年12月、父はウクライナの文化を広めた疑いで、大学を退学させられてしまいました。マリーカの両親はKGBを恐れ、マリーカに婚約指輪を返させ、二人の婚約を解消させました。(この不幸な出来事が、その後の父の複雑な女性関係に影響を与えたのだと思います。)

1972年、父はカームヤネツィ‐ポジーリシクィ大学(The University of Kamyanets-Podilskiy) の教養学部で再び勉強を始めました。
しかし、そこでもまた、以前と同じ理由で大学を退学させられてしまったのです。
可哀想なお父さん、しかし決して屈することはありませんでした。
父は、KGBの不当な行為を訴えるため、ウクライナ共産党の第一書記ウラジミル・シチェルビツキー(Volodymyr Shcherbytsky)に会いにキエフ(Kyiv)に向かいました。面会はうまくいきませんでしたが、その時父は、ウクライナの全ての大学が父を受け入れないよう指示されているのだと悟りました。

ウクライナで学ぶ機会を失った父は家族にも告げず、密かに一人モスクワに逃げました。
そのことで家族は父がKGBに殺されたのではないかと心配しました。母のメラニアは、息子の安否を知りたいため、占い師を頼ったほどです。占い師は父が無事であると言いました。

1973年、父はモスクワのゴールキ文学大学 (The Gorki Institute of Literature in Moscow)に入学を許可されました。この大学は”独創性“のある生徒を受け入れる学校として有名でした。
ここで同じ大学に通う、後に私の母になるナターシャ・ドュリノバ(Natasha Durinova)と出会い、結婚を決意しました。しかしそれを知ったKGBは父が密かにモスクワに逃げたこと、また外国籍の女性(ナターシャ)と結婚しようとしていることを知り憤慨しました。
KGBは直接父に抗議するのではなく、大学の学長であるウラジミール・ピネノフ(Vladimir Pimenov)を使い、ナターシャに対し、父のようなウクライナの民族主義者と結婚しない方がいいと説得させました。しかし、ナターシャは、父に劣らぬ頑固者で、どうしてKGBは父を民族主義者と決めつけるのか理解できない、国民的な詩人の胸像を作ることは、彼女の出身国であるチェコスロバキアでは尊敬される行為であり、ソ連のように迫害されることではないと、学長に反論しました。

次にKGBのしたことは、ブラチスラヴァ(Bratislava)に住んでいるナターシャの父(私の祖父)オンドレイ(Ondrei)にSTB (チェコスロバキアの秘密警察)のAgentを送り込み、娘が元囚人で危険な男と結婚しようとしていることを忠告させました。

有難いことに、祖父は勇気ある公正な人物でした。
もちろん、娘が結婚しようとしていることを知り驚きましたが、STGの突然の訪問に恐れることもなく、娘の人生は娘自身が決めることであり、自分は干渉したくないと言いました。そのとき祖父は要職についており、一度も会ったこともない男(父)のため職を失う危険もあったのです。私は祖父が亡くなるまでずっと、勇敢な祖父を尊敬し感謝し続けました。普通の父親であれば、このような場合、STGを恐れ、すぐに娘を説得するためモスクワに飛んで行ったと思います。しかし祖父はそれをしませんでした。

祖父のおかげで、私はこの世に生を受けることができたのです。

1977年7月、二人はモスクワで結婚し、旧チェコスロバキアに移住しました。
父はリタ(Lita)の著作権代理店に職を得ました。
そして1978年9月、私が生まれました。

残念ながら、この結婚は長くは続かず、両親は離婚しました。しかし、その後も二人は良い友人関係を続けました。離婚後、KGBとSTBは再び母にコンタクトし、もし彼女が望むなら父をチェコスロバキアからソ連に強制送還することができると言ってきました。 彼らは、母が、離婚した父の事を恨んでいると思っていたからです。
しかし、母は「もしあなたたちがその様なことをするのであれば、彼がここに住めるように、すぐにでも彼と再婚する!」と言い放ちました。
私はそんな母をとても尊敬します。離婚した元夫を敵意を持ち、彼らが不幸になろうが構わないと思う女性が多いからです。
母は離婚後も私が父と連絡を取り合うことを望みました。私はいつでも父と会うことができ、父と離れないようにしてくれました。その上、母は父が亡くなるまでずっと、出来る限りのサポートをし続けました。父が大きな手術をしたときも、全ての手配を母が行いました。母は離婚後の良い家族関係の例を示してくれたのだと思います。

父を排除することに失敗したKGBが次に行ったことは、両親の全ての行動、思想、会話、誰と会ったかを詳細にKGBに報告する人間を協力者として家族内に侵入させることでした。
何人かは、昔からの友人で両親を騙すことに同意しました。また何人かは新しい友人として近づいてきました。これらの人々は両親を訪問し、食事を共にし、普通の友人同士がするような付きあいをしました。
後に、両親は長年にわたり、彼らに騙されていたことを知り激しく落胆しました。
しかし、そんな中でも、母の人間性に感銘をうけ、家族に近づいてくる者達には注意するよう警告してくれるSTBのエージェントもいました。
父はいわゆる”友人”と呼んでいた人達のことを知ることになります。
共産主義体制が崩れ、STBの公文書が公開された時、いく人かの友人達の名前もSTBのAgent Listによって公にされました。
私は、このような不正に協力した人たちが、よく平気でいられるのか理解できません。 私はKGB のエージェントにはあまり興味はありません。彼らは自分たちの ”汚いない仕事”をしただけではなく、とても ”うまく” やりました。 私はむしろ、KGBやSTBが素直に彼らの計画に協力し、上手に芝居のできる者たちを探し出したことに驚嘆します。とにかく全ては終わりました。過去を変えることはできません。私はいつか彼らが自分たちが犯した行いを説明しなくてはいけない日がくると思います。私はカルマ(因果応報)を信じます。自分の行った行為は、いつか自分に戻ってきます。

その後、父はウクライナの女性イリナ (Irina)と2度目の結婚をし、1988年に女の子が生まれました。私の可愛い妹ナタースシア(Natassia)です。
私たちは近所(バスで数駅のところ)に住んでいたので、私はナタースシアを異母姉妹ではなく、本当の妹のように感じていました。また私の母とナタースシアの母イリナも友達でした。
しかし、この結婚もうまくいかず、また離婚することになりました。
この時期、ヨーロッパの政治状況は劇的に変わりました。特に重要な出来事は、ソ連とチェコスロバキアが崩壊したことです。この時、父はスロバキアにとどまるかウクライナに帰るか決断をしなくてはいけませんでした。
最初父はスロバキアに留まることを決め必要な書類を集めました。何も問題はないはずでした。なぜなら父はスロバキアで15年以上仕事をし税金を払ってきました。また二人の娘はスロバキア生まれで、スロバキアの市民権をもっています。
しかしどのような理由なのか、父はスロバキアの永住権を取ることが出来ませんでした。

移民局の女性職員はいつも、父がスロバキアに滞在できないような法律の例外を探しだしました。母が父の書類に不備があると気づき、母自ら移民局に出向きました。私も何度も行きました。しかし、私たちの努力は受け入れられませんでした。移民局は、家族を離ればなれにし、二人の娘から父親を引き離し、将来会うことも難しくなるという現実に気遣うことさえしませんでした。私たちは腐敗した壊れかけたシステムに振り回されたのです。

そのことを知った父は、持っていた全ての書類を移民局に返し永久にウクライナに帰ることを決意しました。”あなたの税金はほしい、でもあなたはいらない。”
スロバキアの移民法の理屈なんてそんなものです。どうすることも出来ませんでした。
移民局の女性職員は仕事にプライドを持っていました。
彼女は、忠実で勇敢に仕事をこなし、一つの案件が終了したことに満足したことでしょう。私はゴーゴリ(Nikolai Gogol 小説家)ならこの状況を楽しみ、古めかしい官僚組織をおもしろおかしく小説にするだろうと思います。

しかし、このような状況は私たちを不幸にはしませんでした。
父はスロバキアにいるより、ウクライナに帰ったことで、ずっと幸せになったと思います。
父はウクライナで、素敵な女性オレクサンドラ(Oleksandra)と3度目の結婚をしました。
オレクサンドラは医師で詩を書き、ピアノやバイオリンをひきしました。
オレクサンドラは父の芸術世界を十分に理解しました。(それは簡単なことではありません。)
父はテルノピールのMuseum of Political Prisoners and Victims of Communist Regime でDirectorとして働いていました。母と私はよく父に会いに行きました。結局のところ、全てがうまく行ったのです。

私は皆さんに父の人生をお話しましたが、父の話を通して、旧ソ連とチェコスロバキアの社会で何が行われていたかもお伝えできたと思います。
同じような経験(もっとひどい経験)をした人たちがたくさんいることも知っています。
もしウクライナの歴史を調べることがあれば、すぐにウクライナの伝統や民族のために
立ち上がった勇気ある人たちに行われた、ハラスメント、ストーキング、いじめ、拷問、尋問、殺人という言葉の連鎖を見つけることができます。
私たち家族はとても運が良かったと思います。
私たちは、降りかかった困難を上手く払いのけることができたからです。
これは全て過去の出来事です。誰も過去を変えることはできません。しかし私は一人の人間とその家族の運命が簡単に忘れ去られ、ただの統計学の数字の一つにされたくはないのです。
父と私たちはKGBとSTB(また、多くの偽の友人たち)に苦しめられました。
私はこのことを黙ってはいません。
父の健康状態はKGBが行った数々の仕打ちのため、悪化していました。
しかし、KGBが何をしようが、父の魂(Soul)まで取り上げることはできませんでした。
父は祖国ウクライナを否定することはありませんでした。父は、自分がウクライナ人であることにどんなに誇りを持っているか、いつも私たちに話してくれました。父はこの上もなくウクライナの国を、文化を、人々を愛しました。
父はかつて寝転んだ芝生や庭に育ったリンゴの木を愛しました。
父は本当に素直で純粋な人間です。父は祖国を愛し、その愛を表現しただけで
罰をうけました。
しかし、父はウクライナの人々を、理念を、魂を裏切ることはありませんでした。
だから私は父が好きなのです。

ここで、父の詩を紹介したいと思います。
父はAssociation of Ukrainian Writers and the Society of Ukrainian Writers in Slovakiaの会員でした。2010年亡くなる前、Shevchenko National Prizeに
父の作品 “Dorohy dodomu” / “Roads to home “ (2009)がノミネートされました。

残念ながら、父は賞を逃しました。贔屓目に言うのではありませんが、父の詩はこの賞を受賞するに十分値すると思います。
父の詩は父の内面、感情、悲しみ、直感を写しだし、想像力に満ち溢れています。
父は言葉を巧みに操りました。父の優れた言葉使いや独自の隠喩は多くの文学批評家に認められ、高く評価されました。 父の詩集は全部で4冊出版されています。
”Bludniy lebid / Straying Swan (1993), Mohyly na Konyakh / Graves on horses (1999), Dorohy dodomu / Roads to home (2009), Son ye son / A Dream is a dream (2016)です。
残念ながら多くの詩は、私たちの抵抗にもかかわらずKGBに押収され、その後
どこからも見つけ出すことはできませんでした。

父は2010年11月25日テルノーピリの自宅で亡くなりました。62歳でした。
月日が経っても私は父の死を受け入れることが辛く、喪失感で一杯です。父は素晴らしい詩人でした。しかし、それ以上に私にとっては愛する父親でした。父の死は深いトラウマとなりました。私は今だに父が写っているビデオや写真を見ると、涙が溢れ、ひどい精神状態になってしまいます。
この悲しみは消えることはないでしょう。 人は愛する人を亡くした時、大きな衝撃をうけ、その後、以前と同じようには生きられなくなるからです。
普通の家族のように父と一緒に住むことはありませんでしたが、父の声、情熱、魂が恋しいです。私は父の娘として生まれてきて(妹のナタースシアとともに)とても幸せです。

父の最期の詩集 “Son ye son / A Dream is a dream” (2016) の出版に努力してくれた父の家族と友人たちに感謝します。この詩集の挿絵は、ウクライナの素晴らしい天才画家イバン・マルチュック(Ivan Marchuk)が描いてくれました。私はマルチュックの才能が父の詩集をより完璧なものにしてくれたと思います。

父の作品は今のところ、ウクライナ語でしか読むことができません。しかし、いつの日か父の才能、情熱、祖国を愛する気持ちを理解してくれる詩人を見つけ、他の多くの言語に翻訳し紹介できればと思っています。

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マリアナ